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【二輪レーサーの死】③ ~若井伸之~ 享年25歳

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『フラミンゴ伝説』
若井伸之は千葉県八千代市出身。最初のレース
活動は「菅生」(SUGO選手権/ノービス)でスタ
ートを切った。1989年に国際A級へ昇格。翌年、
1990年は全日本125ccでランキング2位を獲得。
坂田和人の「1発の速さ」は目立ったものの、
若井伸之の活躍はノーマークだった。しかし、
翌91年から世界GP125ccへFULL参戦を果たす。
坂田和人、若井伸之、そして鈴鹿WGP125にワ
イルドカードでSPOT参戦の上田昇が初優勝!

当時はこの3人のことを『日本人3羽烏』と総
称した。上田昇は、鈴鹿WGPを勝利した勢い
で急遽、WGPのFULL参戦を決めた。上田昇
(NOBBY)の強さは一体?って感じだったが、
ブリジストンタイヤとホンダの(Aキット車)強
力な後押しがあった。若井伸之は「モトバムレ
ーシング」という名門チームの所属だった為、
やはり「Aキット車」である事には間違いなか
った。長身の為、125ccのマシンからはみ出し
そうなライディングスタイルが後に「フラミ
ンゴ」という愛称で皆から親しまれる。
また、坂田和人の「外人なんてへなちょこだ」
発言に象徴される様に『日本人3羽烏』が
GP125の表彰台を「圧巻」した。
1993年は若井伸之がスペイン・へレスサーキッ
トで没した年ではあったが、数々の名ドラマや
「奇跡」が起きた。親友の原田哲也が93年から
ヤマハ「TZ-M250」で世界GPにFULL参戦を開始。
開幕戦(豪州)ではスズキ「RGV-γ250」を駆る
ジョン・コシンスキーをゴール寸前で原田哲也
が抜きいきなり初優勝!同年、若井伸之はプラ
イベイト参戦ながら92年ドイツGPで「RGV-
γ250」を駆りスポット参戦7位の「戦績」が
認められ、スズキからワークスマシン「RGV-
γ250」を貸与された。

若井伸之の「事故」は第4戦スペイン・へレス
サーキットの予選中に起きた。普通のパドック
パスではピットロードには出られないはずだが、
レース中にもかかわらず、ピットロードを横断
しようとした「観客」を避けようとしてコンク
リートウォール(壁)に激突。確か「頭部強打」
が死因だったと記憶している。
スペイン・へレスサーキットの決勝は「親友の
死」を目の前にし、欠場かと思いきや、125の
坂田和人、250の原田哲也が涙しながら「劇的
勝利」をスペイン・ヘレスで飾った。

1993年最終戦、スペイン・ハラマで迎えたGP
250は、ロリス・カピロッシが「4位」に入れば
チャンピオンだった。仮に原田哲也が「優勝」
してもカピロッシが「4位以下」でなければ原
田のワールドチャンピオン獲得はなかった。
原田は「勝つことだけに集中」してレースに
挑んだ。途中、カピロッシが動揺し、コース
アウト!
その隙に原田が前へ。蓋を開けてみれば、原田
が独走優勝してカピロッシが「5位」。原田が
「日本人16年ぶり」のワールドチャンプ獲得!
後に「250ccだから・・」と揶揄する声も囁か
れたが、そんな事は「どうでもよい」。
125だろうが250だろうがワールドチャンプは
ワールドチャンプなのだ。真夜中、TV放送と同
時に『奇声を発して歓喜』したのは今でも忘れ
られない。「スペイン・ハラマの青い空」。
原田哲也の「ワールドチャンプ獲得!」は若井
伸之の後押しだと誰もが信じて疑わない。今か
ら18年も昔の出来事だ。もし、若井選手が生き
ていれば44歳。フラミンゴよ♪沢山の「夢」を
ありがとう!!

No10 MOTO BUM RACING <RS125R> [92,鈴鹿]
Nikon N-FM2 ED400mmF3.5S+X2 1/60 Iso200

「若井選手の写真集」
*没後、限定発刊