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【二輪レーサーの死】② ~沼田憲保~ 享年41歳

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『RGV-γ伝説』
沼田憲保は茨城県日立市出身でありながら活
動拠点を「筑波」にはせず、宮城県「菅生」
(SUGO選手権)でスタートを切った。1991年、
国際A級へ特別昇格。*地方選手権で年間チ
ャンピオン(確か)3位までを獲得すると、翌
年は国際A級へ「特別昇格」出来る。
青白のスズキワークスカラー「RGV-γ250」
全日本ロードレース選手権へフル参戦。
全日本のデビューイヤーは、岡田忠之、原
田哲也、青木宣篤らのライバルに阻まれ、
あまり目立った存在ではなかった。
当時、カワサキも「X-フォーミュラ」の開発
コードマシンで、2スト市販車「KR250」の
再来?を狙ってか、塚本昭一が全日本250cc
に出場していた時期もあった。これは「勝つ
ため」ではなく、「調査」(リサーチ)に等し
かったのではないか。それに比べ「勝つた
め」に登場したスズキ「RGV-γ250」の開発
を(国内で)引き受けたのが沼田憲保だった。
傍目には「RGV-γ500」のエンジンを真二つ
に割っただけのエンジンで、250専用に作製
されたエンジンには到底見えなかった。
ホンダはワークスマシン「NSR-250」を供給
し、ヤマハは250のワークス活動は「停止」
したとはいっても「原田哲也スペシャル」
である「TZ-M250」の供給をしていた。
沼田憲保は1992年の全日本第3戦で「RGV-
γ250」を3位表彰台へ導く。1993年は全日本
第9戦で初優勝を達成。世界GP開幕戦(豪州)
では「RGV-γ250」を駆るジョン・コシンス
キーがゴール寸前で「TZ-M250」を駆る原田
哲也に敗れた。
その年のオランダGP(アッセン)でジョン・
コシンスキーは走らないγ-250に「蹴り」を
入れて「自ら首」になるのである。

翌1994年の全日本では宇川徹加藤大治郎
の若手の台頭がはじまる。しかし、1995年に
は念願の全日本250タイトル獲得!
1996年はラッキーストライクカラーのゼッケ
ン「No1」で誇らしげに参戦するも、ライバ
ル達(岡田忠之原田哲也宇川徹)が世界
GPへ参戦し、「ライバル不在」の中、型落ち
NSRを得た加藤大治郎の`猛追`にあう。
が、見事に全日本250チャンピオン2連覇の
「偉業」を達成した。

彼はTVやWOWOWなどのインタビューでは
やや挑発的な態度で、開口1番「原田君が宇
川君が」が`口癖`だったように思う。
皆の後をやっと追うかの如く、1997年から
念願の世界GP250に参戦開始。が、時既に遅
し・・主だった戦績を残せず、引退したかに
見えた。

ところが、1999年から鈴鹿8耐に参戦。スズ
キの2ストワークスマシン「RGV-γ250」は既
になく、4ストへ転向。2004年より新設の全
日本ロードレースST600へヤマハのマシンで
「RC甲子園」からフル参戦開始。
どう見てもプライベイト参戦に等しかった。
華々しい活躍をしたかに見えた元スズキワ
ークス(γを愛した)ライダーは、2007年9月
4日、岡山国際サーキット(TI)でダンロップ
タイヤのテスト中にタイヤバリアへ激突。
心肺停止状態の`即死`だったそうだ。
彼が世界GPから「撤退」してから全日本へ
復帰した動機は一体、何だったのか。後継
者の育成?いや、我々に大事なメッセージ
を(自らが実践することで)残したかったか
ら・・ではなかろうか。
走り続けることが世界GPライダー沼田憲保
の『プロライダー魂』だと信じてやまない。
心からご冥福をお祈り致します。


No9 TEAM LUCKY STRIKE SUZUKI <RGV-γ250>
[93,筑波]
Nikon NewFM2 ED400mmF3.5S+X1.4
1/500 Iso400

No5 TEAM LUCKY STRIKE SUZUKI <RGV-γ250>
[94,鈴鹿]
Canon EOS-5 EF400mmF5.6L 1/180 Iso400

「沼田選手の直筆サイン」
*98,全日本最終戦のオフィシャルプログラム